祭と神社の結びつき。神主からみた「まつり」とは

祭MAGAZINE

日本文化の根っことも言える「祭」。この記事を通じて祭とは何か、そもそも神社とは何か。そして日本人やこの記事の読者とこれらがどう関係しているのかについて考えていきます。

そもそも祭とは何か

「祭」という言葉に対し、恐らく多くの人が「楽しく騒いでいる状態」と言ったポジティブなイメージを持っているでしょう。またそれが度を越し「無秩序に乱れている」という印象を抱く人もあるようです。確かにこうしたイメージに誤りはありませんが、これは「祭」の持つ一側面でしかありません。祭が持つ様々な性質を捉えるためにまずは「祭」と「神社」の関係を尋ねてみたいと思います。

所説ありますが日本に仏教が伝来したのは6世紀の半ばと考えられています。これより以前は「神道」しかありませんでした。むしろ神道という名前もなく、人々は自身や特に「ムラ」などの共同体と関係する「カミ」を祀ることで、豊作の祈願や感謝、そして生活の安寧を願っていたと思われます。こうした仏教以前の日本人の「神祭り」の様子を知る方法はたくさんありますが、今回は以下の和歌を見てみることにしましょう。

ちはやふるかみのやしろしなかりせば春日の野辺に粟撒かましを(万葉集巻三 404)

これは許されない恋を表現した歌という説がありますが、今回はこの歌の奥を探るのではなく、表現そのものに注目したいと思います。この歌を現代語訳してみると、「この春日の野辺に神のやしろがなければ私は粟の種を撒いて畑にしてしまいたい」となります。民俗学者である折口信夫によると古代では、しめ縄を張ってその中に柱を建てた状態を「やしろ」と呼んだそうです。ここに登場する「かみのやしろ」というのは、現代に見る「神の社」=「神社」のような建物ではなく、この「春日の野辺」自体が普段人の立ち入りが禁止されている「禁足地」だったことがわかります。ですからこの作者はこの地が禁足地でなければ畑にしてしまいたいと歌っているのです。

古代の日本人は人々が生活する場所と離れた場所にこうした「かみのやしろ」のように清浄が保たれた禁足地を設け、そこへ必要があるときに神を招き、供え物をし、願いごとを告げ、歌舞を披露して、再び元へと帰ってもらったのです。これを「マツリ」と呼び、普段の生活とは異なる非日常の時間・空間として特別視していました。それがやがて仏教の寺院のように建物を設け、神に常に近くにいてもらえるようにしたのです。これが「ミヤ(御屋)」=「宮」であり、現在私たちが目にする神社というわけです。

そして、まだ神社という建物がなく神を禁足地へ招いていた時代、人々の心情そのものが、この「マツリ」という語源につながっているといわれています。年に数度ある「マツリ」を人々は心待ちにしていたからです。神の来臨を今か今かと「待つ」人々の心情が、「マツリ」という言葉になったのです。現に千葉や神奈川で行われる祭には「やわたんまち」「こうのまち」のように祭を「まち」と読むものが存在しますが、これは古い日本語が今に残っている事例です。

神社で行われる祭とは

 

これらのことから神社は「祭を行う場所」ということがわかりました。しかし祭と言っても実はたくさんの種類があり、冒頭に述べたにぎやかなイメージを持つ祭は「例祭(れいさい)」と呼ばれるもので、最も重要な祭ではありますが、やはりそれでも多くの中の一つなのです。卑近な例にはなりますが、「ちゃんこ」と聞くと多くの人が「ちゃんこ鍋」をイメージします。しかし実際はお相撲さんのとる食事はすべて「ちゃんこ」と言います。「鍋」だけではないのです。「ちゃん(親)」と、「こ(子)」で食卓を囲むものはすべて「ちゃんこ」なのです。

同様に神社で行われるものは一部例外を除けばすべて「祭」になります。祭は大祭・中祭・小祭・諸祭に分類され、神社の由緒や農耕に関係する祭、国家皇室の繁栄を祈る祭など概ね日付が決められている祭に加え、初宮詣や七五三、厄祓や交通安全などのご祈祷、また神社とは離れた場所で行う、地鎮祭やプール開き、あるいは神道式のお葬式である神葬祭やそれに関連する様々な葬送儀礼もやはり「祭」と表現されます。神社の神職は年間にこうした様々な祭を通じて、それぞれの神社に鎮まる神々に公・私の願いを伝える役割を担っている者たちのことを言います。

祭の構造と私たち

私たち人間には五感が備わっています。そして良い刺激には良い反応が返ってくるという原則があります。例えば良い言葉や前向きな言葉を使えば、現実もこれに即したものとなると信じられてきました。「言霊」と呼ばれる日本人が古くから大切にしてきた考え方です。

さて、神社では年間を通じて様々な祭が奉仕されることをご理解いただきましたが、やはりその中でも「例祭」と呼ばれるものが、多くの人にとって馴染みがあり、心躍る瞬間であることは間違いないでしょう。神社によって違いはありますが概ね例祭では、神饌(しんせん)と呼ばれる様々な産物が供えられ、流麗な日本語で記された祝詞(のりと)が奏上されます。そして神前では神楽や奉納演舞が披露され、鐘や太鼓に囃されながら、神は神輿に乗って街を巡り人々の暮らしぶりをつぶさにご覧になるのです。これでお気づきの通り「祭」とは神に対して人間同様に、五感への良い刺激を捧げる行為なのです。神への良い刺激は、良い反応=加護として返ってきます。それが豊作であり、暮らしの安全であり、国家・地域の発展へとつながる仕組みなのです。

私たちが祭に参加するということはこうした構造に加わるということであり、それは個人の幸福にとどまらず、時間や空間を超えた日本人という集団の幸福を祈る営みです。これが多くの人の心を捉えてやまない祭の魅力なのです。さあこれをお読みのあなたの出番がやってきました。勇気を出して一緒に祭に参加してみましょう。

 

執筆者プロフィール

 

柴田 良一(しばた りょういち)

横須賀市出身。國學院大學大学院博士課程後期単位取得退学。YouTube『神主の遺言 本当の私発見チャンネル』を運営。人間の心に焦点を当てながら、日本・神社・祭などの魅力を発信。鬱(うつ)やパーソナリティー障害などの精神的な苦しみについても独自視点の考察を行っている。

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