祭の本質的な価値に迫ることは、祭をとりまく課題や解決策を考えるきっかけとなる —
祭エンジンでは、様々な立場のゲストをお迎えし、代表の宮田との対談を通して、あらゆる視点から祭を深ぼり、祭の本質的な価値について考えていきたいと思います。
第一弾では、祭や神社に深く関わる、日本文化研究家・吉木誉絵さんをゲストにお迎えし、「現代における祭の意義、目的について」というテーマでお話をお伺いしました。
〈対談者プロフィール〉
吉木誉絵(よしき のりえ)
慶應義塾大学大学院法学研究科修了。NPO法人外交政策センター研究員。神職。コメンテーターとしてメディアに多数出演。三児の母。著書『日本は本当に「和」の国か』(PHP研究所)
宮田宣也(みやた のぶや)
横浜市栄区出身。一般社団法人明日襷(アシタスキ)代表理事、祭エンジン代表。
神輿や神棚の修理・製作、祭文化の活性化事業を行う他、全国各地の祭やヨーロッパへの神輿渡御など海外でも活動をしている。
祭の本質は今も昔も変らない
宮田:吉木さんは、現代における祭の価値とは何だと思いますか?
吉木:私は現代における祭と、昔の祭の価値的な違いはあまりないと思っています。時代とともに祭の内容や様式などの変化はありましたが、意義や目的などの根本的な部分は変わっていないと思います。古代やそれ以前の先史時代、つまり日本という国が生まれる前から祭は存在していて、その時から現代に至るまで、その本質は変わっていないと考えています。
私が携わっているのは神社においての祭、いわゆる祭祀で、宮田さんが関わっているような、共同体としての地域を盛り上げる祭とは少し違うところがあるかもしれません。しかし、両者は根本的には同じだと思っています。祭の意義や目的は、その共同体に住む人々の絆やつながりを維持していくことだと思っています。
神社祭祀は、神様と人との中取り持ちをする仲介役なわけですが、なぜそもそも神社が存在するのか、なぜ神様を祀(まつ)ることがずっと続いているのかというと、それが地域の共同体の絆、人々の繋がりを維持してきたからです。宮田さんも以前仰っていたことですが、祭は、社会システムとして成功していたからこそ、ずっと続いてきたのだと思っています。
祭は人類生存のために必要な共同体
吉木:ではなぜ、共同体や地域社会の繋がりを維持する必要があったのかというと、それは生き残るためであり、「人はひとりでは生きていけない」という普遍的な事実につきるのかと思います。一人では生きてはいけないからこそ、共同体という集団でいた方が好都合。狩猟採集の縄文時代から現代に至るまで、情報共有はいつの時代も大事ですよね。例えば、新しい狩りの方法を開発したとか、あの場所は危ないとか、生き残れるかどうかは情報共有にかかっていて、それが今よりも昔のほうがシビアだったと思うんですよね。
人類の生存には共同体が重要であるということを大前提として、少し人類学的な話をすると、私たち現生人類、ホモ・サピエンスは生き残り、ネアンデルタール人は絶滅しました。2つの種が共存していた時代があるのですが、なぜホモ・サピエンスだけが生き残ったのか、それは、共同体の規模の差だと考えられているんです。ネアンデルタール人は少数で行動していて、ホモ・サピエンスは大規模な集団で一緒に暮らしていた。
祭って実はそのときからあるんですよ。
ネアンデルタール人は、神を崇める、祭を行うなどの象徴的な営みを行う能力がなかったと考えられています。一方で、ホモ・サピエンスは集団を維持していくための措置として祭や神話を語ることをとても大事にしていたのではないか、と言われています。つまり、ホモ・サピエンスの方が組織力があったのです。それって現代を生きるうえでも同じことだと思います。
特に日本列島は、自然災害が多い環境なので共同体の力を強め、維持し、皆で一致団結していかないと生きていけなかった。今でも地震、大雨などの自然災害はずっと続いています。自然からの恵みを受けている一方で、自然によって多くの命が奪われてきました。自然は命の恵みを与えるだけではなく時として命を奪う存在でもあり、そんな自然とずっと向き合ってきたのが日本人なんですよね。
私はフランス人の友人に、「日本は地震大国なのに日本人はなぜ引っ越さないのか」と聞かれたことがあります。その友人は例えばゴジラなど、日本には壊滅的な物語が多いとも言っていて、それは地震やその他の自然災害が多いことと実は結びついているのではないかと指摘していました。そして、日本人はそれを受け入れている、と。だから日本人は東日本大震災のような大地震があっても日本から引っ越さないのではないかという見解を持っていて、なるほどなと思いました。
ずっと自然災害に直面してきた日本人は、共同体で乗り越える必要があったんです。だって一人では絶対に乗り越えられないじゃないですか。
あとは、弥生時代から始まったお米づくりのことからも、共同体の大切さがわかります。現代のように機械がない時代は子供を育てるがごとくお米づくりって本当に手間がかかって一人ではできない。だからこそ、稲作の社会に入って集団としての組織力が必要で、その集団、共同体をまとめるための手段が祭だったのではないでしょうか。
日本人は自然に宿る神々を畏れ敬いながら、自然と共に生きてきた。自然と共に生きるとは、共同体を大事にすることでもあった。祭にはそのような役割が根本にあって今日まで続いてきたんでしょうね。それが古来変わらない祭の本質だと考えます。
一方で、今は便利な世の中になり、一人でも生きていけそうな気がしてしまう人も多いと思います。でも、いざ何かあったときにはみんなの助けがないと生きていけないですよ。どう思われますか?
祭への関わり方を知る機会の提供が必要
吉木:祭をする意義や目的に対する意識が希薄化していっているのは間違い無いですね。
農業・漁業などの第一次産業に携わっている方は特に、都市部の人より祭を大切にしている印象があります。また、祭の伝統が続いている地域では、祭は大事なことだという共通認識があると思うんですよ。
同じ地域に住み続けている人はそこで行われる祭をずっと大切にしていると思いますが、人の動きが激しい都市部に住む人は、地域の祭に愛着を持ちたくても難しい。引っ越してきたばかりの新参者だったりすると、そもそも祭に参加する機会がないんですよ。
宮田:確かにそうですね。参加することが難しいかもしれませんね。
吉木:機会がないんですよね…本当に。縁日にちょっと行くぐらいしか祭に参加する方法がないのかなと思います。祭の根本的な意義や目的は昔から変らないのにもかかわらず、宮田さんが仰るように祭に対する意識が希薄化しているし、祭は大事だけれども、無くても生きていけるようになってしまった。自分が都市部に住んでいるのでより、そう感じますし、SNS上でも簡単に繋がれる時代になって、人々の繋がりをつくる手段ということで考えると、人々の中で祭の重要性って希薄化してしまいますよね。
私は引っ越しが多いので、自分が住む地域に対してはどこに行ってもまだ、新参者な気がするんですよ。でも私は神職としてお世話になっている神社があるので、祭への関わりはあります。しかし、神社に関わりのない人たちは祭に関わる機会も少ないと思います。
現代で行われている祭には、例えばお神輿をあげる祭もあれば、七五三などのように個人で神社に行って、神職に祝詞をあげてもらう祭祀(いわゆる正式参拝)などがあります。個人単位で関わっていく祭に比べて、お神輿をあげる祭は人々が集い、思いを乗せて行うものなので、人によってはなんだか参加しづらく感じてしまうのでは、と思います。このように都市部では、いわゆる地域社会が一丸となって行う祭への関わり方や参加方法がわからない、ということが課題だと言えます。参加してみたい人はたくさんいるのでしょうけど、入り方がわからないんですよね。その地域に住んでいる人しか祭に参加できないというような雰囲気もある気がします。
宮田:私が横浜で社会実験的に行なっている神社清掃は、祭への参加方法がわからないという課題を解決する一つの手段だと思っています。都市部の横浜は、マンションがどんどん増えてきて人口も増えてきていますが、人が増えたからといって地域活動に多くの人が参加しているのかというと、それはまた別の話だし、実際には祭やお神輿の担い手が減っている。その課題を解決するために様々な活動をしてきた中で、コロナ禍では神社清掃を続けているのですが、神社清掃を通して、神社への関わり方や祭への参加方法を見出すことができると思っています。
要は、地元にずっと住んでいる人というランクは取り得ないのですが、『毎月清掃している人』にはなれるというわけですよね。そのような人は、神社に対してきちんと接している印象がありますし、毎月清掃している神社のお神輿を担ぐことは自然なことのように思えるし、気持ち的にも参加しやすく、祭が楽しみになると思うんですよ。
今まで運営側は、祭の日1日をどうするかばかりを考えていたのですが、コロナ禍において、祭の日以外を祭の日とどのように繋げていくかということに、可能性を見出すしかない状況になったわけですよ。お神輿をあげるとかコミュニティ形成の場になる祭、いわゆる祭祀とは別でにぎわい、神賑行事としての祭や神社にどのように参加するべきか。それは、神社や地域との関わり方を考え、1年に1回の祭の日を楽しみに待つというこの、364(日):1(日)の構成が大切で、コミュニティ形成や、いわゆる『村社会』の中で防災に繋がったり、地域、まちの発展に繋がったりする良い社会システムだと思っています。
日本の国民性と祭
吉木:祭って日本人に合っていると思います。日本人は他者にとても感情移入する傾向にあります。どういうことかというと、西洋の社会では自分は自分、他人は他人といって割り切るところがありますが、日本人は例えば、関西弁だと相手のことを「自分」というくらい、自分と他人が垣根なく同一化しているところがあります。
あと、日本には本当の意味での『社会』という概念がないと思っています。どちらかというと『世の中』『世間様』というように、家族の延長線上にある、大きなひとつの共同体的な意味が強い。社会は英語で ” society ” ですよね。” society ” は個人が自立している状態なんですよ。一方で、日本では何かあれば世の中に対して「お騒がせしてすみません」って、すぐ謝罪するじゃないですか、芸能人も政治家も。世間様に対して謝罪していますが、あれって社会に対しては必要がない行為です。
日本人は自分と相手が近いという感覚を持っていて、だからこそ、おもてなしという文化があると思うんです。おもてなしって、自分が相手の立場になって何をしてほしいかを一生懸命に考える。自分だったらこうされたら嬉しいからやってあげよう、みたいな、まさに感情移入の原理が根幹にあると思うんです。ホスピタリティはそれよりも一歩引いた感じのイメージでシステマチック。だからこそブレが少なくて一貫性を保ちやすい。
感情移入しやすく、同調性が高い国民性と祭はすごく合っています。祭はその力が一極集中する、年に1回の日なんです。だから、祭は日本人に最適化した社会維持システムで、だからこそ、ずっと続いてきたのだと思います。
日常が大事という、364(日):1(日)の考えもまさにそうで、神社清掃はすごく良いなと思います。
宮田:ありがとうございます。春日神社では、最近3,4才くらいの子が参加してくれていて、勝手に落ち葉を集めてくれたりするんですよ。子どもたちは自分たちでゲーム化していくというか、集めるのが面白くなって楽しんでくれてますよ。
吉木:そうですよね、子どもは何ごとにも楽しみを見つけ出しますよね。
宮田:お子様が大きくなられたら、ぜひ、神社清掃を(笑)
後半に続きます。
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(text by 角屋桃子/祭エンジン事務局)