祭で感じた「雄勝町」の魅力

祭MAGAZINE

東日本大震災と雄勝町

2011年3月11日14時46分。東日本大震災が起きました。

私は当時学生で、ちょうど春休み期間中でした。

ものすごい揺れが起きた瞬間、今でも鮮明に覚えていますが私は大学構内にいました。ようかんのように揺れる校舎。うねる地面。校舎から慌てて出てくる人たちと、突然の停電。立っていることすら困難だった揺れはもう一度起きました。

とんでも無いことが起きてしまったと私はとりあえず仲間たちに連絡し、無事をひとりひとり確認していました。水も電気もガスも止まってしまった地区も多く、寄り添うように一箇所に集まりました。その日の夜、なんとか電気のつながる家を探し、テレビを見ると東北は凄まじい状況です。

見たこともない津波。皆で食らいつくように映像を見ていたものの、「行かなきゃ」と私は思いました。

それからしばらくして、私はたくさんの荷物を積んで東北へ向かい出発しました。

「今は行くべきじゃない」

多くの人に止められましたが、何かしなきゃいけないという激動が私を突き動かしていました。

約一週間。北へ北へ、知っている人たちの無事を確認しながらペダルを漕いでいました。約200kgの荷物を積み、必死に進んでいったのを思い出します。

私が辿り着いたのは南三陸町でした。3月31日。震災が起きてから20日後のことでした。私は早朝テントをたたみ峠を下ると、見たこともない景色が広がっていたのです。見渡す限り壁のような瓦礫の山。道路だけが片付いていて、恐ろしく静かでした。

「簡単には、帰れないな・・・」

辿り着いた後のことを特別考えていなかった私は、ボランティアセンターへと向かったのです。

結局数ヶ月、南三陸町へと滞在することになるのですが、到着してから約一ヶ月経った頃一本の電話がかかって来ました。それは私が自転車で北上中、仙台で出会った女性(中川さん)でした。東京から復興支援活動に参加していた彼女は、一度東京へ帰り、準備を終えて戻って来ていました。

「お神輿を見にきてほしい」

それが再会のきっかけでした。津波の被害を受けて壊れてしまった神輿があると言うのです。私は救援物資として貸してもらっていた軽トラに乗り、その中川さんの下へ向かいました。

石巻雄勝町。僕が初めて訪れたのはこの時でした。

津波により被害を受けてしまったお神輿。
塩水を浴び、壊れてしまったお神輿は修復不可能な状態でした

避難所で聞いた「本当は、お祭、やりたいんだよね。」

私が南三陸町を離れたのは約1ヶ月ぶりでした。自転車ではなかなか遠くまで行くことが出来ず、日々ボランティア活動で精一杯だったので他の場所へ行く機会がありませんでした。私は中川さんを通じて、雄勝の人とお話するきっかけをもらいました。

「本当は、お祭やりたいんだ」

「でも、今は言い出せない。町をどうするか、仕事をどうするか。それで皆必死だから」

町一つ流されてしまった雄勝の住民の方々は、毎日を本当に必死に過ごしていました。まだ避難所暮らしの人がほとんど。明るい話題を持ち出すことが出来ない苦しさが、痛いほどに伝わって来ました。

「おみこし作れないかな?」

そんな提案を頂いたのは南三陸町へと戻ってからだったように思います。数ヶ月経って、避難所からだんだんと仮設住宅へ皆引っ越していた時期でした。私もこれをきっかけに茨城へと戻り、雄勝のためにみこしを作ってみようと考えました。

材料は、瓦礫の中から住民の方と探して来ました。雄勝に残っている材料を使って、一基のみこしを作ることとなったのです。お祭の日も決まりました。雄勝に仮設の復興商店街が出来る日です。

11月のその日まで、約4ヶ月かけて製作することとなりました。

商店街オープンの当日の事をよく覚えています。その年の10月、私の祖父は亡くなりました。製作にあたり様々なアドバイスをもらい、担がれるのを楽しみにしていた祖父でしたが、難病にかかりその生涯を閉じました。

祖父を失った絶望で、一時は製作を断念しようとも思いましたが、祖父の思いを胸に、もう一度製作を開始しました。2011年11月。ついにみこしは完成し、雄勝へと運ばれていきます。

復興商店街オープンの朝。何も無かった旧市庁舎の駐車場には、仮設の建物が立ち並び、それぞれお店が入っていました。おみこしはその日の目玉です。担がれることは住民の方へのサプライズ。手伝ってくれることになっていた学生ボランティアグループと連携して、元気よく会場へと担いでいきました。

完成したおみこし。
たくさんの想いを背負って、担ぎ上げられることとなりました。

復興商店街であがるみこし。みんなが泣いていた。

初めての場所で完成したばかりのおみこしを担ぎ上げてみると、たくさんの歓声が上がりました。しかし商店街の前に並んだテントの中の人たちはみんな泣いています。

「震災前の雄勝を思い出した」

お祭がとても盛んな町だった雄勝。震災後、町が流され全てを失ってしまった日から半年以上が過ぎ、明るく楽しい声が聞こえることも無かったのかもしれません。

若い仲間たちで精一杯担ぎ上げるおみこしは皆のこころの希望となってくれたようです。皆、嬉しそうでした。商店街オープンイベントの夜、真っ暗になった会場で最後に担ぎ上げられたおみこしの時、皆涙でぐしゃぐしゃになっていました。

お祭の力。おみこしの力。

私はそれまでおみこしがこんなにも人の心を元気にし、希望のシンボルとなる事を知りませんでした。祖父が亡くなり、諦めそうになったときもあったけれど作り上げた瞬間。

「おみこしは人を元気にする力があるんだ。」

そう強く感じた出来事でした。

どんな時でも、お祭の力で元気を作ることが出来る事を知りました。

雄勝町桑浜で震災後初のお神輿

「お神輿を修理したいから、見にきてほしい。」

電話をくれたのは、また中川さんでした。雄勝町桑浜、白銀神社。そこは今の私の”明日襷”の活動が始まったきっかけになった神社でもあります。

震災後一度もお神輿を上げることが出来ていない場所。しかし、どうしてももう一度お神輿を上げたい。雄勝に伝わる雄勝法印神楽の舞台も、お神輿を置く台も、お神輿も、全て綺麗に修復して復興の一歩を踏み出したい。それが桑浜地区会長の願いでした。

私は縁を辿り、会津へと行き着きました。今でも共に仕事をする仲間との出会いのきっかけとなったのもこの時です。

「お神輿を直してほしい」

僕にとって、本格的な宮神輿の修復に携わった最初の機会でした。例大祭が行われるのは毎年旧暦の3月17日と決まっています。その日に合わせ、会津の大学内の工房では急ピッチで作業が進められていきました。

震災から上がる初めてのお神輿。桑浜にとっては本当に大切な瞬間です。修復の作業は毎晩遅くまで続けられていました。その日は、4月の終わりころ、爽やかな風が吹く真っ青な空でした。気温が低い東北では桜が咲き誇り、まだ少し肌寒い朝でした。

神楽の衣装を模して作ったという「えりさし」と呼ばれる華やかな色の衣装を来て、力強い地元の漁師さんと、この日のために集められたお神輿大好きな私の仲間たち。

「震災前の、本当に鮮やかだった雄勝の風景をもう一度」

たくさんの人たちが集まって来ました。震災後初めて上がるお神輿。浜の人たちはお祭りが、お神輿が大好きです。様々な事情で浜を離れてしまった人たちも、その日ばかりは故郷に戻り、空にはたくさんの大漁旗と鯉のぼりが泳いでいました。

「ちょーさいど よーさいど」

雄勝のお神輿の掛け声は独特です。お神輿を携えながら波を表し、激しくお神輿を傾け、動かしていきます。浜の人たちの表情はきらきらしていました。手を合わせている人も、遺影を持って涙を流している人も。みんな外に出て来ています。浜の人たち全員で、お神輿がもう一度上がる喜びを噛み締めていました。

美しく修復され、やっと担ぎ上げられたお神輿。皆思いを噛み締めています

雄勝町には日本の祭の原点がある。

この祭を次世代へ届けなければ。

白銀神社は、地図にも載っていない小さな神社です。雄勝半島の突端、白銀崎の先にある真っ赤な神社。桑浜、羽坂の人たちは港から船を出すと真っ赤な神社の方へ挨拶してから漁に出ると言います。

自然と共に生き、津波に打ち克ちもう一度上がったお神輿。人々の力強さと、上がった時の本当に嬉しそうな表情は、やはり中心に白銀神社のお祭があったからでしょう。

「もう一度、お祭をやらなければいけない」

その思いが浜の人たちを動かし、団結させました。お神輿をもう一度担ぎ上げることが出来た時が浜の人たちにとってもう一度浜を作り直す勇気となったのでしょう。

都会で行われている喧騒にまみれたお祭とは違い、本当に里にとって大切な一日となる日。お神輿の近くを素通りする人なんていません。手を叩き声を上げ、応援してくれます。私は祭の源流を見た気がしました。暖かなこの風景を残さなければいけない。そこにいる皆が愛するこの神輿を、皆によって守られて来たこの祭を。

“風の谷“と呼ばれる羽坂で吹いた一陣の風は、神楽を舞う姿を楽しそうに見つめる浜の人たちに桜吹雪を散らせていました。あまりに美しいその風景。ここでしか再現できないこの空間を保存しなければ、祭の原点が失われてしまうと感じました。

浜の人たちはこの日を本当に楽しみにしています。誰もがこの祭を愛しています。

桜の下、お神輿は静かに佇んでいます。

神楽師・上山さんの雄勝の祭にかける想い

「もしじいさんともう一度会えたら、そうだな、何も話さなくていい。ただ、酒を飲みたいな」

神楽師の上山さんはこう話してくれました。上山さんの祖父は今も語り継がれる伝説の神楽師でした。今でも語り継がれ、面をつけて舞台に上がれば正に神が降りて来たようだったと言います。

お祭の後、神楽師の宴は笛や太鼓を鳴らしながら誰かが舞い始めます。そんな時いつも話題に出ていました。お祭に生きた祖父。そんな背景は私と重なるものがあるようです。

「宮田くんのじいさんにも会ってみたかった」

大きな祖父の懐かしくあたたかな思い出を追いかけて、いつも僕は神輿に触れています。もしかすると上山さんは、神楽の舞台にお爺さんの存在を求めているのかも知れません。

雄勝の総鎮守である葉山神社は雄勝半島の中心あたり、大浜という地区にあります。実は震災により津波の大きな被害を受け、全壊してしまった神社です。平成27年(2015年)、再建する事が出来ました。1000年以上前から信仰されて来たと言われる石峰山の磐座を祀る石(いその)神社を本宮として、古来より修験道の霊山となっていたとも言います。御神体でもある薬師如来像からも神仏混淆の時代より信仰され、雄勝法印神楽は各浜の祭のたびに奉納されてきたのでしょう。600年とも言われる伝統は、今もなおここに在ります。

しかし、人口減少による後継者不足は深刻で、雄勝法印神楽の未来を背負っていかなければいけない上山さんの想いは真剣です。「絶対に自分の代で途絶えさせてはいけない、次の世代へ届けたい。」お爺さんが命をかけて臨んでいた姿を見ていたからこそ、きっと特別で真剣な想いがあるのでしょう。私が祖父を追いかけているように。

雄勝には豊かな自然と海の幸、美しい海、そしてその地に育まれた芸能と祭があります。震災により大きな被害を受けてしまい、過疎化も加速しています。しかし、上山さんのように雄勝を愛し、それでも祭を続けていきたいと思う人たちが確かにいるうちは、その情熱の炎が消える事はありません。

祭エンジンを通じて、彼らのふるさとの自慢の逸品を味わってみてください。その一つ一つのあたたかな想いが、ご先祖様が命がけで繋いでくれた襷を未来へつなぐ役割を背負った彼らへの大きなエールとなるのです。

竣工祭の夜、新築された葉山神社。
新たな歴史が紡がれていきます。

いつも楽しそうに神楽の話をしてくれる上山さん。
神楽の未来を背負っています。

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